対談

2010.08.17

松久保 伽秀さん法相宗 大本山 薬師寺執事

第1回 私たちは、生かされています。感謝する心に幸福が宿ります。

松久保 伽秀さん プロフィール

昭和41年(1966)4月9日生まれ
平成7年(1995)3月 名古屋大学文学部修士課程修了
平成10年(1998)8月 薬師寺録事に就任
平成21年(2009)8月 薬師寺執事に就任

薬師寺ホームページ  


第1回
私たちは、生かされています。
感謝する心に幸福が宿ります。


対談日  2010年7月30日(金)
2010.08.17
潮田
本日は、よろしくお願いいたします。
松久保
こちらこそよろしくお願いいたします。
潮田
松久保さんは、小さい頃から薬師寺に入ろうと思っておられたのですか。お父様(松久保秀胤長老)の影響はあったのでしょうか。
松久保 
私は、小学校5年からお寺に入りました。当時、父は副住職で大変忙しく、ほとんど家にはいない状況で、遊んでもらった記憶はあまりありません。また、とても厳しい人で、怒ると異様に怖い人でした。お寺へ入るきっかけは、その父の言葉からでしたが、逆に、お寺に行けば、父から離れられると思いました。
その頃は、お坊さんになるための下積み生活で、朝、お寺から学校に登校する前に、ちょっと実家に寄って、夕方、学校からお寺にもどって、お寺の草むしりなどをやっていました。なかなか大変な生活でしたね。
潮田
小学校5年から親元を離れるなんて、母親の心情としては、なんだか「かわいそう」と思ってしまいますけど、その後は、どうだったんですか。
松久保 
高校の頃は、数学と物理が好きで、医学か工学の方面へ進もうかと考えていました。そして、大学院を修了する頃まで、実は、自分の進路については悶々と悩んでいました。その理由は、いつもお寺では、私たち僧侶が列を組んで人々の間を通るのですが、まだ若い、未熟な自分に対して、手を合わせて拝む方々がいて、それがとてもいやだったんですね。
それで、ちょっと仏教から離れる感じで、大学院も留学したインドでも、仏教とある意味、対極にあるインド哲学を学んでいました。そして、その流れのままインド哲学の研究者にでもなろうと思っていました。父親からは、後を継げと言われたことは一度もありません。
いよいよ大学院での勉強も終わるという頃、担当の先生から「この先、どうするのか」と聞かれまして、その「拝まれる苦痛」を話したんですね。すると、その先生が「拝まれるなら、拝み返したらいい。それが仏教の教えではないか」と言われまして、その言葉に、まさに目から鱗が落ちました。
潮田
それは、どういう意味ですか。
松久保
つまり、その方々の手を合わす純粋な気持ちに応えるだけでいいということです。
その方々は、私を崇拝しているわけではありませんね。たとえ相手がどんな人であっても拝んであげようという純粋な気持ちが自分に無いから、拝まれるのが苦痛になることを教えていただきました。
潮田
私たちは、自分の進路を一生懸命に求めたら、必ずそれに対して答えを得られると感じます。
現在、松久保さんは、薬師寺の執事というお立場ですが、どういったお仕事ですか。
松久保
一般の会社で言うなら、中間管理職ですね。他の執事と仕事を分担していまして、私は、庶務と、財務を担当しています。今秋、東塔の復元修理が開始されますが、そのお金の管理などで、文化庁にも足を運んでいます。また、修学旅行生へのお話や、日本全国に赴いてお話をさせていただくことも多いです。

大切な「生かされている」という感謝の心
「無我」、「有我」のバランスをうまく取る

潮田
ご多忙ですね。そういったお仕事を通して、感じられることはありますか。
松久保
私たちは、「生かされている」と感じる心が大事だと思いますね。この心が無ければ、幸せにはなれないでしょう。自分は、生きていますが、少し見方を変えて、自分の親や自分自身、我が子と、明らかに引き継がれた顔や仕草を見ながら、生かされていると感謝すると、背筋がピッと伸びる感じがします。すると、小さい自分でも何か社会の役に立つことを考えられます。そこに人間の幸福があるのではないでしょうか。
この「生かされている」というのを、仏教では、「無我」と言います。しかし、無我だからと言って、仏教は、人間が生きる意欲までも否定することはありません。
潮田
私たちは、生かされていると同時に、しっかりと自分自身で生きていくことも捨てはならないと思います。その「しっかりと生きる」ということは、無我の反対ですから、有我と表現してもいいのでしょうか。
松久保
有我(うが)ですね。その言葉はあります。仏教が無我を説けば、有我は、インド哲学で大切にする境地です。
潮田
私たちは、無我と有我の両方を合わせ持って、そのバランスを取りながら生きることが求められるのですね。
その有我は、時間を使って、身体も動かさないと実感できないと思います。たとえば、今日、私は新幹線に乗って、約3時間半かけて、薬師寺にやってきました。そして、今、松久保さんと会って、しゃべっています。それは確かに疲れることではあるけれど、この奈良の、そして、お寺の静かで、ゆったりとしたたたずまいに触れて、心と身体が、家でじっとしていては決して得られない多くのものを吸収しています。そこに、自分が生きるという主体性が宿ると感じます。
松久保
人生は、選択の連続ですね。そこで、自分が主体的に選んでいる時は幸福です。しかし、不本意な選択を余儀なくされた時、私たちは不幸を背負いやすいです。
新幹線が混んでいて、グリーン車しか空席が無くて、お金を余計に払ってグリーン車に乗る時、「お金はかかったけど、こんなフカフカのシートに座れて、静かで、よかったな」と思えば幸福ですが、「余計なお金がかかった。なんでこんな目に遭うんだ」と立腹すると、そこに幸福はありません。
潮田
どんな状況の時でも、そこから何か自分にプラスになるものを見つける努力を持ちたいですね。しかし、それは心にゆとりが無ければ、なかなか難しいです。そこで、私は生かされている、という無我を覚えておくといいと思います。その言葉を発すれば、どこか心がほっとして、一見、不幸の色をしているものも、幸福の色に変えられるでしょう。

文・構成 潮田圭子